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2010年10月の2件の記事

2010年10月14日 (木)

「東京時層地図」と「TOKYO古地図」で「ブラタモリ・丸の内」の予習をしておく

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東京国際フォーラムにひっそりとある「東京府廳舎」の石碑。

前回エントリした「東京時層地図を使って「ブラタモリ」の予習をする」が、好評だったので、調子にのって丸の内編も予習したいと思います。

とは言うものの、築地は家の近くなのでかなり詳しい予習ができたのですが、丸の内はあんまりよく知らない。でも、隣の区だし、そんなに遠いわけでもないのでちょっと行って色々と調べてみました。

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ところで、先日「TOKYO古地図」という新しいiPhone用地図アプリが発売されました。
この「TOKYO古地図」は、江戸時代(天保十四年(1841年))の大江戸絵地図に、iPhoneで計測したGPSの位置情報を重ねあわせるというアプリで「東京時層地図」に収録されてない大名屋敷の位置などが詳しく描かれた江戸期の地図と現代の地図を対照させることができるとても便利なアプリです。
今回の丸の内編は、「東京時層地図」と共に、この「TOKYO古地図」も使いながら予習していきます。

◆予習その1・丸の内ってなに?

「丸の内」という地名はお城のあった町にはわりとある地名で、名古屋市にも「丸の内駅」という駅があります。今ウィキペディアでざっと調べたところ、十指に余る全国の丸の内が出てきました。
そもそも「丸の内」とはお城の本丸の中であることを示す言葉。なので、現在の丸の内界隈は江戸時代は江戸城の城内だったわけです。で、丸の内は特にお城に近いので、親藩や譜代大名などの徳川家に近しい大名の豪壮な屋敷が立ち並んでおり、現在のビックカメラ前から国際フォーラム、東京駅前を抜けて大手町に至る道は「大名小路」と呼ばれる道だったらしいのです。

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東京国際フォーラムから大名小路を北側に眺める

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「御城」の右側、お堀に囲まれた部分がだいたい丸の内(アバウト)

時代は移り幕末。明治新政府に召し上げられた親藩や譜代大名の屋敷の大半が陸軍の関連施設となって利用されることになり、丸の内は一躍陸軍の町となりました。
現在の市場の敷地ほぼ全てが海軍の関連施設となっていた築地と好対照をなすかもしれません。

丸の内軍事施設
オンマウスで陸軍関連の施設を表示します。

そして明治23年、政府は麻布に新しく建設する兵舎の建設費用を捻出するため、丸の内一帯の土地を三菱グループ創業者の岩崎弥太郎に128万円で売却しました。
軍隊が移転したあとの丸の内は広大な空き地が広がり、「三菱ヶ原」とも呼ばれたそうです。

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大正初年の丸の内。左はじに見えるのが東京駅、右はじに見えるのが海上保険会社(現在の東京海上日動ビルのあたり)の建物。

そして明治26年、三菱グループの最初のビル「三菱一号館」が三菱ヶ原に完成。その後も続々とオフィスビルが建設され、明治後半にはレンガ造りの建物が立ち並ぶ様子が、さながらロンドンのようで「一丁倫敦」と言われるほどの街に成長しました。
まさに、丸の内のオフィス街としての歴史は、三菱一号館始まると言えるわけです。

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再建された三菱一号館。わざわざ建て直すんだったら最初から壊さなければよかったのに……。

明治時代に完成した三菱1号館は、昭和43年に取り壊されましたが、今年、忠実に再現されて復活し、美術館として新しくオープンしました。

ところで、「丸の内」の表記に関してですが、昔は「丸ノ内」と「ノ」の字がカタカナでしたが、昭和45年に住居表示を実施した際、なぜだかわからないのですが「丸の内」という表記に改められました。したがって、地下鉄の路線名の表示だけは「丸ノ内線」と「ノ」のまま残ってしまったようです。

◆予習その2・江戸前島の痕跡を探す

徳川家康が江戸に入府する前、丸の内は大きな入江で海だったらしく、これを「日比谷入江」と言い、その入江の東側に「江戸前島」という半島が突き出ていました。

江戸前島は元々鎌倉にある円覚寺の寺領だったものを、江戸の都市改造をするため、家康が横領してしまい、そして、神田にあった山を切り崩して入江を埋め立て、現在の丸の内の元となる土地ができたのだそうです。

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江戸前島の範囲がうっすら標高が高く(白く)なっている。オンマウスで江戸前島の範囲を表示します。

外堀は、江戸前島の峰に沿って開削されたので、地形図を見ると、外堀を埋め立てて作った現在の外堀通りに沿って、地面が微妙に高くなっているのが分かると思う。

丸の内方面から外堀通りを見通せる場所で地面をよく観察してみた。

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国際フォーラム横の高架下から鍛冶橋交差点(江戸前島の峰)方面を望む。微妙に道路が高くなっているのがわかりますでしょうか?

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鍛冶橋交差点(江戸前島の峰)に向かって地面が盛り上がってる。

いかがでしょうか?
とても微妙な差なので、分かりにくいかもしれませんが地形図と見比べながら歩くと結構面白いです。

◆予習その3・消えたお堀

丸の内の北と南に、それぞれ今では消えてしまったお堀がありました。
北側にあったのは「道三堀」と呼ばれ、家康が江戸に入府したころに、江戸城築城のための資材運搬や搬入のために開削したと言われる堀がそれです。

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和田倉濠から一石橋のあたりまで、江戸前島の付け根を切る形で開削された。

大きな地図で見る

ところで、一石橋のあたりと、和田倉濠・桔梗濠のあたりの地面と水面との距離を観察してみると、一石橋のあたりに比べ、和田倉濠・桔梗濠の方がよりいっそう地面と水面が近い。

ぼくは現在の皇居のお堀の水位と、日本橋川の水位が同じかどうかはよく分からないのだけど、もし同じなのであれば、江戸前島の峰の部分を開削した一石橋周辺は、地面から水面までの距離が長く、日比谷入江の海を埋め立てた和田倉濠・桔梗濠の周辺は、地面から水面までの距離が短い。というのも納得できる話だと思う。

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水面から地面まで4メートルほどはある。(一石橋横)

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水面から地面まで1メートル弱。(桔梗濠周辺)

そして、南側にかつてあった堀。
これは外堀の一部で、その名残が日比谷公園内に残っているのが古地図から見て取れる。

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まさにお堀の欠片が残った感じ。

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心の字を崩した形になっているので「心字池」と言うらしい。左に見える石垣は日比谷御門の石垣だ。

◆予習その4・大名小路の大名屋敷は今何になってるのか

ここではかつて大名小路に立ち並んでいた大名屋敷の主な敷地に、現在何が建っているのかをざっくりとながめていきたいと思う。

画像名称
オンマウスで現在の主な建物の位置を表示します。

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新丸ビル・阿部伊勢(備後福山藩・阿部家)

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丸ビル・松平内蔵(備前岡山藩・池田家)

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東京駅・松平丹波(信州松本藩・戸田家)、水野壱岐(北条藩・水野家)、松平三河(津山藩・松平家)ほか

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東京中央郵便局・真田信濃(信州松代藩・真田家)ほか

画像名称
オンマウスで現在の主な建物の位置を表示します。

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東京国際フォーラム・松平土佐(土佐藩・山内家)、松平阿波(阿波徳島藩・蜂須賀家)

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丸の内警察署・本多中務(岡崎藩・本多家)、DNタワー21・青山下野(篠山藩・青山家)、帝国劇場・松平因幡(鳥取藩・池田家)

以上、かなり駆け足でざっと見てきましたが、いかがでしたでしょうか?

海から武家屋敷、そして陸軍の町、ビジネス街と、時代は移り変われど、常に「戦う男の町」だったという一面が丸の内にはあったというのは、意外な発見でした。

ブラタモリではおそらく、江戸前島の話と合わせて縄文海進の地形の話なども出てくるかもしれません。あと、予告で言っている「産業遺跡」というのも一体何のことか楽しみです。

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2010年10月 5日 (火)

「東京時層地図」で「ブラタモリ・築地」の予習をしておく

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「東京時層地図」というiPhoneアプリが発売された。
これは、iPhoneのGPS機能で測定した現在地を、明治時代から昭和30年頃までの東京の地図に対照させて表示させるというとてもシンプルな地図ソフトなんですが、これがめっぽう面白い。
例えば、ぼくは中央区の勝どきに住んでいるのだけど、明治時代初期だともちろん現在地は海の上。しかし、明治のおわりにはいきなり埋め立てが完了しており、ぼくの住んでいるマンションのある場所は倉庫のマークが付いている。
確かに、ぼくの住んでいるマンションのオーナーは倉庫会社だから、納得がいく。
そんな感じで昔の地図を眺めていると、さまざまな発見や驚きがあり、日がな一日見ていても飽きない。飽きないというか、これはiPhone持って出かけたくなる。

◆せっかくなので「ブラタモリ 築地」の予習もします

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築地の波除神社の玉子塚とすし塚。他に海老塚、鮟鱇塚、活魚塚と塚だらけ。

ところで、昨年末から今年はじめにかけて放送されたNHKの「ブラタモリ」の第2シーズンが、10月7日よりスタートするらしい。なんとその第1回が、「築地」らしい。
「ブラタモリ」は、お昼のリーダー・タモリさんが東京各地を実際に歩いてめぐり、その地域の古地図と現在の様子を見比べつつ、微妙な高低差や不自然な道の付き方などから、その土地のむかしの姿を推理していく番組だ。
おそらく、築地編の収録はもう終わってると思うのだけど、せっかく「東京時層地図」という便利なものが手に入ったので、これを使いながら「ブラタモリ 築地」に出てきそうな物件を色々と巡って予習しておこうと思う。

◆予習その1・築地市場への貨物引込線跡

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現在、汐留シオサイトと小洒落たネーミングをされた再開発地区がありますが、あのへんはほんの10数年前までは更地で、当時、電波少年の企画で、ポプラ並木(芸人)が穴を掘ってる所を見に行ったりしたものだけど、ここ10年ほどで様子がガラリと変わってしまった。
で、その汐留シオサイトですが、「時層地図」で確認すると、更地になるよりもっと前は汐留貨物駅という貨物ターミナルで、その汐留貨物駅から築地市場まで鉄道貨物線の引込線が引いてあったんですね。
上記の踏切跡はその引込線跡に残っているもので、そのまま引込線のあったルートが、汐留から築地市場まで道として残っている。

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警報機が撤去されずに残されている。

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汐留から築地市場前まで残る線路跡の道。

ちなみに、現在の築地市場の建物が大きく湾曲しているのは、貨物引込線の線路を建物内に引き込みしたのが、そのまま建物の形として残っているためだ。

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貨物線が、汐留から築地市場の中へニュルっと入っている。

ちなみに、下の航空写真は現在の築地市場の建物


大きな地図で見る

「ブラタモリ」チェックポイント
おそらく、鉄道好きなタモリさんのことなので、このポイントは必ず出てくると思う。築地市場の建物が湾曲している理由も含めて出てくるはず。


予習その2・築地場外市場周辺の橋の跡

築地はその地名からも分かるように、海を埋め立てて「築いた土地」なので、「時層地図」で確認すると縦横に水路が走っているのがよくわかる。

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ここでは築地場外市場周辺に残る水路跡と橋の痕跡をいくつか見てみたい。

昔水路だった場所は、土地が周りより一段低くなってるので、容易に推測できるのだけど、「時層地図」の昔の地図と見比べるとより一層鮮明に体感することができる。

中でも、晴海通りに架かっていた「門跡橋」は橋の親柱が面白い形で残っている。
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花壇の中に埋まるように残る親柱跡。「昭和三年六月… 復興局建…」の文字が見える。

ちなみに「門跡」というのは築地本願寺のことで、この門跡橋はちょうど築地本願寺の裏手にある。この門跡橋から築地市場よりの小田原橋までの水路部分は、現在は駐車場にその姿を変えている。

門跡橋駐車場
オンマウスで水路を表示します。

また、現在は現在駐車場になっている水路に架かっていた「小田原橋」も親柱が残っていて、当時の様子を偲ぶよすがとなっている。

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隣の飲食店と一体化してしていた。

小田原橋
小田原橋駐車場。オンマウスで水路を表示します。

そして、市場入口にかつてあった「海幸橋」は、その親柱部分が市場の入口と波除神社の横に残っているのみだ。
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「アムステルダム派デザイン」と言われてもピンと来ないが、建築的には貴重なものらしい。

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つい最近、平成7年頃まで川だった。

築地川駐車場
オンマウスで水路部分を表示します。

「ブラタモリ」チェックポイント
このあたりの水路跡は、橋の親柱がまだいくつも残っていて、普通に散歩していても「あ、これは水路跡だな」と分かるぐらい分かりやすい場所なので、ここも必ず登場すると思う。

◆予習その3・築地本願寺と場外市場

築地に市場が移転してくる前、築地といえばお寺の町だった。そのようすは明治初期の地図を見れば一目瞭然だ。

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現在の伊東忠太設計の築地本願寺本堂は関東大震災以後に建てられたもので、それ以前は純和風の本堂が建っていたらしい。明治初期の地図を見ると、当時は本堂が南西をむいて建っていて、現在、場外市場となっている部分は、寺がずらりとならんでいて門前町となっている。

かつて、本願寺の本堂から正面に伸びていた参道には現在、円正寺という寺院だけが残っており、門前町だった当時の面影をわずかにつたえるのみだ。

本願寺参道
オンマウスで明治初期のイメージを表示します。

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銅板葺きの屋根と銅板張りの壁は関東大震災後、盛んに建てられた「看板建築」の特徴。場外市場をはじめ、築地周辺にはこのような看板建築が沢山残っている。

そして、築地市場場内。
築地は、日本橋から魚河岸が移転してくる前は海軍省の敷地だった。地図を見ると、海軍兵学校、海軍経理学校、水路部などの施設が並んでいるのが見て取れる。
現在は、水路部が海上保安庁海洋情報部となってほぼ同じ場所にあるほかはすべて別の場所に移転してしまった。

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海軍の土地になるさらに前、江戸時代は桑名藩の屋敷や尾張藩の蔵屋敷などがあった。演習用の入江の一部は大名庭園の池をそのまま転用したもののようだ。

「ブラタモリ」チェックポイント
番宣の中で「築地本願寺の中の地下軍事施設に潜入」というようなことを言っていたので、おそらく築地本願寺の地下にある防空壕跡に潜入するはず。防空壕の入り口が20年くらい前までは駐車場にあったらしいのだけど、現在はコンクリートで塞がれてしまっている。
この地下道は向かいの築地小学校につながっているとも言われ、さらには万が一のとき、皇族が避難するために、皇居までつながっているという噂がある。
さすがに皇居までつながってるというのはガセネタだと思いますが……。

◆予習その4・築地外国人居留地

1869年(明治元年)築地鉄砲洲に外国人居留地が設けられた。それに伴い、アメリカ公使館や、キリスト教の教会・学校などが作られ、現在の聖路加病院を中心とした街並みの元となった。

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ちょっと見にくいけれども、しっかりと「天主教会」「天主教学校」の文字が見えます。

なお、上記地図の「天主教会」のあった場所は、現在「カトリック築地教会」がある。そして「天主教学校」の場所にはURの高級マンションが建っていますが、以前は中央区立第二中学校でした。

大きな地図で見る

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聖路加国際病院内にある米国公使館石標。

アメリカ公使館石標は、現在、聖路加国際病院の敷地内に移設されているけれど、本来アメリカ公使館があった場所はここから少し離れた聖路加タワーの新阪急ホテルの足元のあたりだ。

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米国公使館。現在の新阪急ホテルのあたり。

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ところで、旧アメリカ公使館跡の向かいを昔の地図で見ると、三角形の水路になっているのだけど、これが現在そのままの形で「あかつき公園」という公園になっているのがわかる。

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あかつき公園
オンマウスで水路を表示します。

南明橋
オンマウスで水路を表示します。

さらに、ちょっと面白いのは、明石橋から隅田川に抜ける水路が斜めだったため、その後、その斜めの敷地にそって建てられたマンションが三角形になったことが、地図を見るとわかる。

大きな地図で見る

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敷地が斜めだったため、上空からみると三角形の「築地永谷コーポラス」

三角形のマンション
隅田川に抜ける水路を埋め立てた跡には下水道局のポンプ所が建っています。

「ブラタモリ」チェックポイント
明石町は、慶応大学や、立教大学、明治学院大学、青山学院大学などのミッション系大学の発祥地だったり、縁の深い土地だったりして、それぞれの記念碑が近い場所にいくつもあるので、そのへんが紹介されるかも。他に、指紋研究発祥の碑、電信創業の地の碑もあるので、その辺も出てくる可能性はあると思います。
あかつき公園の形はぼくの個人的な興味なので多分出てこないと思う。

◆予習その5・幻の首都高

中央区役所前の三叉の橋・三吉橋から、新富町交差点付近までの道路をよく観察してみると、高速出口の脇に、廃道のような道路があるのに気づく。
この道路は、首都高速10号晴海線と都心環状線を接続するための道路として作られたのだけど、工事が中断したまま放置されている未成線だ。

三吉橋
三吉橋から新富町交差点を望む。オンマウスで未成線を表示します。

築地川カーブ
廃道になっている場所は現在公園として使用されている。オンマウスで未成線を表示します。

戦前の地図で確認してみたい。

首都高未成線
オンマウスで高速道路と未成線と公園を表示します。

もちろんなのだけど、首都高未成線の部分も昔は築地川の支流だった。
事程左様に、築地周辺の地形は、築地川の川のかたち抜きには語れないということがよくわかっていただけると思います。

「ブラタモリ」チェックポイント
築地川が高速道路になってるのはかなり有名なので、改めて取り上げるかどうか不明ですが、新富町出口脇の未成線の、作りかけの道路がそのまま放置されているようすは、都会の真ん中にゴーストタウンが突如現れたようで、かなりインパクトがあるので、ここは紹介されそう。

◆空から築地を見てみよう

最後に電通本社ビルの展望室からの眺めに築地川を重ねて見たい。

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大名屋敷と寺の町から外国人居留地、そして海軍の町、さらに市場の町へと町の性格を目まぐるしく変えていった築地は「時層地図」を片手に散歩するにはうってつけの町と言えるかもしれない。

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