「東京時層地図」と「TOKYO古地図」で「ブラタモリ・丸の内」の予習をしておく
前回エントリした「東京時層地図を使って「ブラタモリ」の予習をする」が、好評だったので、調子にのって丸の内編も予習したいと思います。
とは言うものの、築地は家の近くなのでかなり詳しい予習ができたのですが、丸の内はあんまりよく知らない。でも、隣の区だし、そんなに遠いわけでもないのでちょっと行って色々と調べてみました。
ところで、先日「TOKYO古地図」という新しいiPhone用地図アプリが発売されました。
この「TOKYO古地図」は、江戸時代(天保十四年(1841年))の大江戸絵地図に、iPhoneで計測したGPSの位置情報を重ねあわせるというアプリで「東京時層地図」に収録されてない大名屋敷の位置などが詳しく描かれた江戸期の地図と現代の地図を対照させることができるとても便利なアプリです。
今回の丸の内編は、「東京時層地図」と共に、この「TOKYO古地図」も使いながら予習していきます。
◆予習その1・丸の内ってなに?
「丸の内」という地名はお城のあった町にはわりとある地名で、名古屋市にも「丸の内駅」という駅があります。今ウィキペディアでざっと調べたところ、十指に余る全国の丸の内が出てきました。
そもそも「丸の内」とはお城の本丸の中であることを示す言葉。なので、現在の丸の内界隈は江戸時代は江戸城の城内だったわけです。で、丸の内は特にお城に近いので、親藩や譜代大名などの徳川家に近しい大名の豪壮な屋敷が立ち並んでおり、現在のビックカメラ前から国際フォーラム、東京駅前を抜けて大手町に至る道は「大名小路」と呼ばれる道だったらしいのです。
「御城」の右側、お堀に囲まれた部分がだいたい丸の内(アバウト)
時代は移り幕末。明治新政府に召し上げられた親藩や譜代大名の屋敷の大半が陸軍の関連施設となって利用されることになり、丸の内は一躍陸軍の町となりました。
現在の市場の敷地ほぼ全てが海軍の関連施設となっていた築地と好対照をなすかもしれません。
そして明治23年、政府は麻布に新しく建設する兵舎の建設費用を捻出するため、丸の内一帯の土地を三菱グループ創業者の岩崎弥太郎に128万円で売却しました。
軍隊が移転したあとの丸の内は広大な空き地が広がり、「三菱ヶ原」とも呼ばれたそうです。
大正初年の丸の内。左はじに見えるのが東京駅、右はじに見えるのが海上保険会社(現在の東京海上日動ビルのあたり)の建物。
そして明治26年、三菱グループの最初のビル「三菱一号館」が三菱ヶ原に完成。その後も続々とオフィスビルが建設され、明治後半にはレンガ造りの建物が立ち並ぶ様子が、さながらロンドンのようで「一丁倫敦」と言われるほどの街に成長しました。
まさに、丸の内のオフィス街としての歴史は、三菱一号館始まると言えるわけです。
再建された三菱一号館。わざわざ建て直すんだったら最初から壊さなければよかったのに……。
明治時代に完成した三菱1号館は、昭和43年に取り壊されましたが、今年、忠実に再現されて復活し、美術館として新しくオープンしました。
ところで、「丸の内」の表記に関してですが、昔は「丸ノ内」と「ノ」の字がカタカナでしたが、昭和45年に住居表示を実施した際、なぜだかわからないのですが「丸の内」という表記に改められました。したがって、地下鉄の路線名の表示だけは「丸ノ内線」と「ノ」のまま残ってしまったようです。
◆予習その2・江戸前島の痕跡を探す
徳川家康が江戸に入府する前、丸の内は大きな入江で海だったらしく、これを「日比谷入江」と言い、その入江の東側に「江戸前島」という半島が突き出ていました。
江戸前島は元々鎌倉にある円覚寺の寺領だったものを、江戸の都市改造をするため、家康が横領してしまい、そして、神田にあった山を切り崩して入江を埋め立て、現在の丸の内の元となる土地ができたのだそうです。
江戸前島の範囲がうっすら標高が高く(白く)なっている。オンマウスで江戸前島の範囲を表示します。
外堀は、江戸前島の峰に沿って開削されたので、地形図を見ると、外堀を埋め立てて作った現在の外堀通りに沿って、地面が微妙に高くなっているのが分かると思う。
丸の内方面から外堀通りを見通せる場所で地面をよく観察してみた。
国際フォーラム横の高架下から鍛冶橋交差点(江戸前島の峰)方面を望む。微妙に道路が高くなっているのがわかりますでしょうか?
鍛冶橋交差点(江戸前島の峰)に向かって地面が盛り上がってる。
いかがでしょうか?
とても微妙な差なので、分かりにくいかもしれませんが地形図と見比べながら歩くと結構面白いです。
◆予習その3・消えたお堀
丸の内の北と南に、それぞれ今では消えてしまったお堀がありました。
北側にあったのは「道三堀」と呼ばれ、家康が江戸に入府したころに、江戸城築城のための資材運搬や搬入のために開削したと言われる堀がそれです。
和田倉濠から一石橋のあたりまで、江戸前島の付け根を切る形で開削された。
ところで、一石橋のあたりと、和田倉濠・桔梗濠のあたりの地面と水面との距離を観察してみると、一石橋のあたりに比べ、和田倉濠・桔梗濠の方がよりいっそう地面と水面が近い。
ぼくは現在の皇居のお堀の水位と、日本橋川の水位が同じかどうかはよく分からないのだけど、もし同じなのであれば、江戸前島の峰の部分を開削した一石橋周辺は、地面から水面までの距離が長く、日比谷入江の海を埋め立てた和田倉濠・桔梗濠の周辺は、地面から水面までの距離が短い。というのも納得できる話だと思う。
そして、南側にかつてあった堀。
これは外堀の一部で、その名残が日比谷公園内に残っているのが古地図から見て取れる。
心の字を崩した形になっているので「心字池」と言うらしい。左に見える石垣は日比谷御門の石垣だ。
◆予習その4・大名小路の大名屋敷は今何になってるのか
ここではかつて大名小路に立ち並んでいた大名屋敷の主な敷地に、現在何が建っているのかをざっくりとながめていきたいと思う。
東京駅・松平丹波(信州松本藩・戸田家)、水野壱岐(北条藩・水野家)、松平三河(津山藩・松平家)ほか
東京国際フォーラム・松平土佐(土佐藩・山内家)、松平阿波(阿波徳島藩・蜂須賀家)
丸の内警察署・本多中務(岡崎藩・本多家)、DNタワー21・青山下野(篠山藩・青山家)、帝国劇場・松平因幡(鳥取藩・池田家)
以上、かなり駆け足でざっと見てきましたが、いかがでしたでしょうか?
海から武家屋敷、そして陸軍の町、ビジネス街と、時代は移り変われど、常に「戦う男の町」だったという一面が丸の内にはあったというのは、意外な発見でした。
ブラタモリではおそらく、江戸前島の話と合わせて縄文海進の地形の話なども出てくるかもしれません。あと、予告で言っている「産業遺跡」というのも一体何のことか楽しみです。
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